小柴恭男ホームページ

本文へジャンプ
ここから本文

昨年までの情報

ラジオ深夜便デビュー(2015年3月9日)

3月1日(日曜早朝)のラジオ深夜便に、私の投稿が載った。

これはNHKの放送開始90周年記念企画エッセーコンクール「ラジオと私」に応募したもので、私のタイトルは「ラジオ放送90周年に想う」だった。

大勢の方から「深夜便を聞いたよ」と、電話やメールをいただいた。ありがとうございました。大勢の方が聞いているのには驚いた。

ちなみに、アナウンサーが「御田小学校」を「おんたしょうがっこう」と読み上げたが、実は「みたしょうがっこう」で、これは私の原稿作成時に、「『おんた』は『みた』と読むのだよ」と説明したときの「おんた」が頭に残ったのか、ワープロを入力した人が「おんた」とルビを振ってしまったからだった。アナウンサーには申し訳ないことをしてしまった。

ラジオ放送開局90周年に想う

小柴(こしば)恭男(やすお)(会社役員)83歳

NHKが芝浦でラジオの仮放送を始め、愛宕山で本放送を開始した頃のことである。

私の父は1934年(大正13年)12月、港区高輪においてラジオと電熱器の製作事業を個人で始めた。

日本で初めてラジオ放送が始まるというので一大ブームとなり、父もラジオ受信機の製作販売を行なった。当時ラジオは利益率の高い商品だったので粗悪品が横行していたため、父はNHKからラジオ相談員の資格をもらい、近くの山手線の駅前にテントを張って、広くラジオの普及と無料修理を行いそのことを自慢にしていた。

静岡市の元陣屋跡の大金持ちの家にラジオセットを納入した時は、地元の親戚一同や近隣の人々が大勢集まり、ラジオのスイッチを入れて放送が始まるとみんな大歓声をあげて聞き入ったとのこと。

父はその晩酒肴のもてなしを受け、夜はふかふかの布団にくるまって寝たことを何度も何度も小学生の私に話してくれた。

昭和初期、工場の近くの御田(みた)小学校での夏場のラジオ体操の時間には、父が無料でラジオ放送設備を貸し出したと聞いている。

早慶戦の時には、工場の前のスピーカーを大きく鳴らし、前面道路の歩道は人垣でいっぱいになったそうだ。(テレビが初めて放映された時のように)

感謝状の写真

1937年(昭和12年)、日中戦争が始まり、せっかく作ったラジオ商組合を解散し、ラジオの製作販売を中止しなければならなかった。(写真はその時いただいた感謝状)

以後は電熱機器のみの製造となり、産業用電気ヒーター製造の会社として「2014年12月2日」に創業90周年を迎えております。


ここまで本文