小柴恭男ホームページ

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昨年までの情報

2018年6月の点字毎日にインタビューが掲載されました(2018年6月30日)

以下に記事を引用します。

「老いて暇なし」 記者:山縣章子

他人に頼ることは甘えで、恥ずかしいことだと思っていた。ところが周囲に手助けを求めると、人の親切が身に染みた。東京都港区在住の会社役員、小柴恭男さん(全盲)は現在、86歳。仕事に連日通い、ジョギングやウクレレの演奏など、趣味も楽しんでいる。新しく知り合った視覚障害のある仲間たちと、生活の不便さを減らす工夫を考えている。「老いて暇なしです」と笑う小柴さん。その元気の源を探ってみた。

気持ちを変えた弟の言葉

50代後半ごろから、車を運転している時にトンネルから出ると、目が明るさに慣れるのに時間がかかった。大型免許の更新で、遠近感や立体感をチェックする検査がうまくできなかった。病院に行くと医師からいずれ見えなくなると言われた。「ショックで、とにかく隠そうと必死だった」。工業用ヒーターの会社を切り盛りしていた自負などもあり、すぐには現実を受け入れられなかった。駅ホームでは折り畳み式の白杖を使ったが、電車に乗ると、さっとしまった。足先で探りながら歩いた。理由をつけて、会合は欠席した。

相当見えにくくなっていた60代後半のある時、9歳下の弟に言われた。「兄貴、隠すのはやめよう。格好つけなくていいよ」。小柴さんははっとした。「人に力を貸してもらうことは甘えではない」。視覚障害を受け入れて、オープンに生きようと決めた。

得意なことを分かち合う

小柴さんは多趣味だ。40年前からは社交ダンスに親しんでいる。ウクレレには、 楽器の演奏経験がないまま挑戦した。その時は既に60代後半。続かないと思われたのか、まず5000円のウクレレを薦められた。それが今や、教えるまでの腕前だ。集まりがあるとウクレレを持参する。カラオケの代りにコードを弾くと、場が盛り上がる。「見えている時は楽譜に頼った。今は覚えるしかないから上達が早い」と前向きだ。

健康にも気を配る。失明してからジョギングを始めた。視覚障害者と晴眼者がともに走る「アキレス インターナショナル ジャパン」に約8年前から参加している。東京の代々木公園のコースは1周1.7キロ。最初の2カ月は歩いた。伴走者の男性から「100メートルくらい走ってみましょう」と提案された。100メートルを走ったら次の200メートルは歩く。それを繰り返すうちに、3周を走れるようになっていた。

外に出かけていくと、交流の輪が広がるのがうれしい。趣味を通じて知り合った若手の視覚障害者にウクレレを教えるようになった。家に引きこもりがちだったその人は、これをきっかけに外出が増え、本人も家族も喜んでいる。体を動かすとっかかりになればと、社交ダンスを視覚障害者と一緒に練習することもある。障害の有無に関わらず、特技を分かち合えば生活が豊かになることを示してくれている。

暮らしの工夫を伝える

趣味だけでなく、暮らしの工夫を伝え、視覚障害に関わる啓発活動にも地道に取り組んでいる。

昨年7月、小柴さんが通勤で利用する駅のエスカレータが点検中で使えなかった 。階段に人が集まっていた。後ろの人に押されて小柴さんはバランスを崩しかけ、白杖が前を歩く高齢者の足に当たってしまった。この高齢者はその場にうずくまり、小柴さんは大きな声で「駅員さん」と助けを求めた。

幸い、相手は数回通院した程度で済んだ。だが小柴さんは「視覚障害者が加害者になってしまうこともある」と反省した。白杖を持っていても、後ろからだと気づいてもらえない時がある。「どうしたら注意してもらえるのだろうか」と考えた。視覚障害者のイラストをデザイナーに描いてもらい、リュックサックに付けられる缶バッジを作った。その年に開かれた啓発のための大会で視覚障害の仲間約200人に配った。

視力を失い、小柴さん自身も文字の読み書きや情報収集に苦労した。今はパソコンや音声読み上げソフトなどを活用する。「中途で見えにくくなった人や見えなくなった人に必要な情報がなかなか届いていない」とも感じている。自身のホームページには「視覚障害お得情報」というコーナーも作り、更新している。視覚障害者もその多くが高齢者だ。自分の体験が他の人の役に立たないか。日々、アイデアや工夫を仲間たちと考えるのも楽しい。家の中で転ばないように細長い点字ブロックのシートを貼って、有効かどうかを試している。「『すみません』などと、声掛けしてくれる白杖も作ってみたい」。見えなくなったことで生じる困難はある。でも、工夫で軽減できることもある。元来の技術者魂がますます騒ぐようだ。


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