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昨年までの情報

どうにも止まらない暑さですね(2023年8月14日)

 盛岡なら涼しいと思って二ヶ月前に予約しましたが、暑さは大変でした。

一日目(8月14日)
 東京発の東北新幹線で盛岡駅に午後到着
 駅前で観光タクシーに乗り盛岡市内の県庁や市役所を見て三石神社に到着。鬼が悪さをして謝るときに岩に手形をつけて以降鬼は来なくなったとの神話がありそれが岩手県の名前のいわれだとのこと。知らなかった。
 宿泊は盛岡つなぎ温泉 湯守 ホテル大観にとまった。部屋に露天風呂があり、目の前は大きな人造湖である御所湖があった。宿は窓が大きく、夜空は満点の星のようだった。風呂も露天風呂でゆっくりした。
 夜は近くの旅館でさんさ踊りを見学した。勇壮な太鼓踊りで楽しかった。

二日目(8月15日)
 御所湖を横断する歩行者が誰もいない約1キロメートルの日陰も全くない繋大橋を歩いて渡り、繋地区からバスに乗り近くの物産展を見学した。そこで盛岡名物の盛岡冷麺とアイスを食べたら身体がやっと冷えた。
 帰りはタクシーで旅館まで帰ったが、運転手さんが言うには「この長い橋を歩いていたのはあなたたちだけでしたね」と言われたのには唖然とした。今年の夏の暑さは異常です。

三日目(8月16日)
 330年生きたと言われる武内宿禰 (たけのうちのすくね)と神功皇后(じんぐうこうごう)のお墓を見て、石川啄木の新婚の家を訪ねた。部屋の奥にある掛け軸もタクシーの運転手さんに写真を撮ってもらった。
 「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」

 帰りに盛岡駅で二つ目の盛岡名物じゃじゃ麺を食べたが、約2時間待たされた。
 食べ終わったら新幹線発車15分前だったのでヒヤヒヤした。

写真1
写真1:盛岡市内の岩手銀行赤レンガ館前にて。
左が妻の淑子、右が筆者。
写真2
写真2:三石神社の鬼の手形の前にて、筆者。
ふたつの岩にしめ縄が掛けられています。


三ツ石と鬼の手形

 伝説によると昔この地方に羅刹という鬼が住んでいて付近の住民をなやまし旅人をおどしていました。そこで人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕らえてもらい境内にある巨大な三ツ石に縛りつけました。鬼は二度と悪さをしないし、又二度とこの地方にはやってこないことを誓ったので約束のしるしとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやりました。
 この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源といわれ、又鬼が再びこないことを誓ったのでこの地方を「不来方(こずかた)」と呼ぶようになったと伝えられています。
 鬼の退散を喜んだ住民達は幾日も踊り、神さまに感謝のまごころを捧げました。この踊りが「さんさ踊り」の起源といわれています。

写真3
写真3:盛岡つなぎ温泉 湯守 ホテル大観にて、浴衣姿の筆者。
テーブルの上には夕食の鍋が置かれています。
写真4
写真4:啄木の新婚の家と書かれた案内図。
地図に歌碑の位置が記されています。
写真5
写真5:啄木の新婚の家の見取り図。
12時方向の四畳半には「啄木が新婚生活を送った室」、
10時方向の八畳には「一禎、カツ子、光子が住んだ室
 啄木が結婚式を挙げた室」と書かれています。
写真6
写真6:啄木の新婚の家の縁側にて記念撮影。
左から長女の裕子、妻の淑子、筆者。


啄木新婚の家

 詩人石川啄木は、明治38年(1905年)5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版しそれをみやげに帰郷の途についたが、金策の必要から途中仙台に下車して土井晩翠をその居に訪ねた。仙台医学専門学校には郷友、猪狩見竜、小林茂雄らが在学中で、彼らと遊んで滞在すること10日およんだ。その間、盛岡市帷子小路八番戸の借家には月末の30日に結婚式を挙げるべく婚約者の堀合節子がその帰宅を待ちわびていた。しかし啄木は遂に姿を見せなかった。そこでその夜級友上野広一(画家)の媒酌で珍妙な「花婿のいない結婚式」がおこなわれた、それがこの家である。仙台をたった啄木は盛岡駅を素通りして渋民に行き、ようやくこの家に顔を見せたのは6月4日だった。ここではじめて新婚の夫婦と両親、妹光子の5人が揃って家庭をもったのである。時に啄木は20歳。この家で稿を起こした随筆「閑天地」は連日、岩手日報の紙上をにぎわし、「我が四畳半」はよく新婚の夢あたたかな情景を描いている。ほかに「妹よ」、「明滅」、「この心」の作がある。
 啄木一家がここに在ること3週間、6月25日には中津川のほとり加賀野磧町四番戸に転居した。
 現在、盛岡市内の啄木遺跡といえるのは、「啄木新婚の家」だけである。

写真7
写真7:部屋の奥にあった掛け軸。
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」
と書かれています。

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