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昨年までの情報

目黒の八百屋お七(やおや おしち)の墓のあるお寺を散策(2020年10月25日)

 10月25日(日曜日)、青木マー君と自宅から下目黒まで歩いて散策した。秋日和の気持ちの良い散歩だった。
 上大崎に有る大圓寺です。江戸の町の我が家に放火(ぼやで済んだのですが)した罪で火あぶりの刑になった八百屋お七(やおや おしち)にゆかりの有るお寺を散策致しました。お七(おしち)16歳、吉三(きちざ)18歳の淡い恋物語が哀れでした。

写真1
写真1:上大崎に有る松林山 大圓寺の門前に立つ小柴。
写真2
写真2:石碑には「八百屋お七(やおや おしち)の恋人
吉三(きちざ)はその後、西雲(さいうん)と名を改め、
お七(おしち)の菩提を弔うため江戸市民から寄進された浄財を基に
行人坂(ぎょうにんざか)の石畳、太鼓橋を石の橋にした」と書かれています。
写真3
写真3:八百屋お七(やおや おしち)と吉三(きちざ)の物語が書かれた立て札。
以下に原文をそのまま転載します。


八百屋お七と吉三(西運)

 江戸時代、本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、天和2年(1682年)の火事の際、避難のためしばらくの間近くの円林寺に仮住まいしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三が十八才でした。
 しかし、短い避難生活のこと、やがてれ離れ離れになってお七は吉三に会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ったのです。大事には至らなかったものの、当時は放火は火あぶりの大罪。お七は江戸中引き廻しの上、大井・鈴が森の処刑場で火刑に処せられました。
 その後、恋人吉三は剃髪し、西運と名を改めて、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼を行脚しました。その後、江戸に戻った西運は、大円寺の坂下にあった明王院(現ホテル雅叙園東京)に阿弥陀三尊仏を祀り、身を寄せながら隔夜日参一万日という念仏行を始めました。浅草寺までの道のりを雨の日も雪の日も休むことなく、鉦をたたき念仏を唱えながら、一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げました。その夜、お七が夢枕に立って成仏した事を告げたのですが、そのお姿が今現在も阿弥陀堂に祀られているお七地蔵になります。
 西運は集った浄財で行人坂の石畳を直し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、社会活動の数々を行いました。そのことを伝える当時の石碑があり、現在文化財指定となり、寺に伝えられています。


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